お茶で「間」を持たせるお話し。

感染症の流行で止まっていた社会活動、とりわけ多くの人が集まるイベントや相手先を訪問して面談する機会が急に増えてきたように感じます。
いや、硬い書き出しですね。さっきまで仕事していたんです。すみません。

ところで。
お客さんとしてどこかの施設や事業所にお呼ばれすると、腰を下ろしてしばらく経った頃にお茶が出されます。
いつも出されるわけではありません。出してくれないこともあります。その時は「呼び出しといてこの扱いかよ、ちっ」とか思うわけです。顔には極力出さないようにしていますが、出てたらすみません。

兎も角。
このお茶、必要かと問われたら個人的にはまったく必要ありません。
それは、わたくし好きな飲みものは持参する主義だからです。
もしわたくしのために飲み物を用意してくれるなら、まず「水」、次に「炭酸水」、3、4が無くて、5番目にぎりぎり「コーヒー」でしょうか。基本、この3つしか飲みたくありません。
さらにいえば、「水」といってもなんでもいいわけではありません。硬度70mg/L以下の軟水に限ります。「炭酸水」はウイルキンソン一択です。
こういう狭量なヤツなので、いつも飲み物は自前です。

わたくしほど極端でなくても、飲み物の好みはけっこう分かれるものです。
短時間の打ち合わせなのにコーヒーが出された、あるいは、糖質制限中なのにオレンジジュースが出てきたなど、微妙な気持ちになることが少なくありません。
その点は、お茶が無難です。好みによって飲む飲まないがはっきり分かれるものでもなく、水のような”無料サービス感”も無く、コーヒーのように”お残し厳禁”な気合いも漂っていません。ってコーヒーは二郎系かよ。
私も上ではああ言いましたが、お茶は出されればいただきます。
この、飲みたければ飲み、飲みたくなければ口を付けなくても許されそうな柔軟さがお茶のよさでしょう。

ところで、どうしてお茶を出すのでしょう。
わたくしが考えるに、それは「間」を持たせることができるからじゃないかと思います。

面談や打ち合わせをしていると、こちらが質問したことに相手がなにも答えないといったことがしばしば起こります。
こういう場合、こちら側が取れる対応は大きく2つです。
ひとつは、話題を変える。もうひとつは相手が答えるのを待つ。
この2つを場合によって使い分けます。
面談で、今ここで話しを詰めてしまいたい場合など、話題を逸らしたくないときがあります。
こういうときは、黙って相手が口を開くのを待つしかないわけですが、その無言の時間がなかなかにつらいです。おそらく、たとえ1分間といえどもじっと待つのは耐え難いしょう。時間が進まなくてじれったい気持ちになったりします。そんなときには、往々にしてこちらから余計なことを言って別の話に逸れさせてしまったりすることも起こりえます。

この時、お茶があると「間」を持たせることができます。
面談で相手が沈黙したら、10秒ほどそのまま待ちます。顔色を見ていて、答えないな、と感じたら、あなたはやおらテーブルの湯飲みに手を伸ばします。そして、受け皿から湯飲みを持ち上げてゆっくりと口に運びます。ひと口、お茶を口の中で転がすようにして味わい、それが舌の上を滑って喉の奥に消えたら、もうひと口。もういちど相手の顔に視線をやると、まだ黙っています。
そこでゆっくりと顔を横に向けて窓の外を見ると、色づいた街路樹が風に揺れています。ああ、季節も深まってきたなあ。さて、返事はまだかな。
これで1分ぐらいは余裕でかせげます。

そのうち、相手が考えていることをぼそっと口にしたりします。
これが案外本音だったりするので、侮れません。

相手も「間」が持たないときは、同じようにお茶を飲んだりしますから、行って来いで都合2分間です。この2分間は、表面的には意味があるのか無いのかわかりません。だけど、話しを深めるのに必要な「間」です。これをこうして作ることができます。
これがお茶の効用じゃないでしょうか。

そんなこんなで、お茶はあったらあったでいいものだな、と思うわけです。

最初に書いたことと真逆の結末ですみません。

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