ニュース記事を読んでいて「あれれ」と思うことがあります。
なぜそう感じるのか考えてみました。
どうやら、それには共通した理由があるようです。
まず、その記事が事実かどうかわからない。
次に、背景が説明されていないか十分ではない。
そして、記事に「角度」がついている、の3つです。
まず、事実かどうかわからない記事をよく見かけます。
何年か前に「エビデンス?ねーよそんなもの」が話題になりましたよね。
エビデンスは、根拠、証拠、裏付けを意味する英語です。
私は、なにがなんでもエビデンスが無ければいけない、とは思っていません。
証拠や根拠はないんだけど、なんとなく気持ち悪いといった感情も大切だと思うからです。
でも、多くの人に読まれる(ことを想定している)記事は、書かれていることを事実として信じるに足りる「なにか」を示した方がいいと思います。
少なくとも、私はそれで納得することができます。
次に、背景の説明が十分でない記事についてです。
読者が神羅万象に通じている神様であれば、並べられた事実を見るだけで時を移さず理解することが可能でしょう。
しかし、ほとんどの読者は神様ではありません。
少なくとも、記事を読もうとしている時点である程度その内容に関心があると想像できます。
しかし、いやだからこそ、もう一歩理解を深める説明がほしいと思います。
読み手が深く考えることができる記事にしてほしいからです。
ただし、いくら説明しているからといって極端な思い込みや陰謀論を見せられると、私は急に萎えてしまいます。
ここまでの2つをまとめると、たとえば次のようになります。
●●という事件があった(事実)。
●●を規制するのは○○法で、そこには○○と規定されている。
しかし、犯人は●●した。これは○○に違反している。
警察によれば、犯人が犯行に及んだ背景は△△だという(説明)。
今後の展開としては、A、B、あるいはC、云々…(補足)。
さて、最後は記事の「角度」についてです。
「角度」というのは、その事実をどのように捉えているのか、という意味です。
「角度のついた記事」は政治関係でよく見かけますよね。
その「角度」を付けすぎると、いわゆる「振り切った記事」になります。
一部地方紙の「振り切った記事」がインターネットで話題になったこともありますよね。これについては例を挙げるまでもないでしょう。
ニュース記事から「角度」を除くのは難しいと思います。
なぜなら、記事自体が書き手の主観そのものだからです。
例を挙げます。
午前3時に犬を散歩させている人がいたとします。
この記事を書く人が「こんな夜遅くに犬を散歩させるのはあり得ない。最近、この街も不用心になったから、犬の散歩にかこつけて悪いことを企んでいるのかもしれない」と、これはいささか極端なたとえですがそう思い込んでいたとしたら、記事は次のようになるかもしれません。
「なんと、午前3時に犬を散歩させている人がいた」
自分で例示しておいてなんですが、ひでーな、これは。
あるいは、ここまであからさまでなくても、
「午前3時に犬を散歩させている男がいた」
とかには、なりそうです。
”なんと”で強調するのは記事として論外ですが、人を”男”に変えるだけで悪だくみのニュアンスが含まれるように感じるのは、私だけでしょうか。
なにが言いたいのかというと、書き手がどの角度から事実に光を当てるか、またどう切り取るかで、記事を読む私たちに与える印象がまったく違ってくるということです。
もちろん記事はこんな一行だけではなくて、数行、数十行にも渡ります。それをどういう構成で書くのか、両論併記の場合はどちらの意見を先に書くのか、それぞれの比率をどうするのかといったことも加わって、それら全体が「角度」を感じさせられるものになります。
どのような記事にも書き手がいます。
すべての記事は書き手の主観で書かれています。
だから、事実の捉え方も、説明の多寡も、角度も、すべて主観の呪縛を逃れることはできません。
それでも、可能な限り事実を、必要にして十分な説明とともに、角度をつけずに記事にしてほしいと思います。そのような記事が読みたいです。
え、お前のブログはどうなんだ?
これは、私が自分自身に向けて書いている備忘録だからいいんです。
事実でなく思い込みを、説明ではなく思い込みを、角度でなく思い込みを書いていいって、思っています。
てことで、こいつは笑って許してやってください。でわでわ。