パリオリオンピック、女子柔道52キロ級で2回戦敗退した阿部詩選手の号泣が賛否両論を巻き起こしている。
柔道では無敗を誇るわたくし(高校で初段になって以来、一度も試合に出ていないから)の周辺では、敗れて畳を降りた後に3分近くも会場に響き渡るほど号泣し続けて、後の競技進行を妨げることになった阿部詩選手の振舞いに懐疑的な意見が多い。私が師匠と慕う年下のジュードーマスター(2段。ここ20年はアームチェア柔道家として主戦場を居酒屋に移し、もっぱらアルコールと戦っている)もテレビ中継でその場面を見て「”残心”がなっていない」と指摘し酷評していた。
だが、私の意見は”師匠”と少し違う。オリンピックの”JUDO”はあれでいいのではないかと思うのである。戦いは試合場内で終わっている。畳から降りて泣きじゃくるのは個人の感情の発露であって基本的に自由である。マナーの問題や後の競技進行に影響が出たというのは、せいぜい出場選手として問われることで「柔道家として残心云々」と指弾されるのは違うんじゃないかな、と思うからである(このエントリを”師匠”が見ないことを強く望む)。
なぜか。オリンピックのあれは”JUDO”であって「柔道」ではないからだ(柔道家が畳を降りた後も”残心”の必要があるか否かはここでは言及しない。その筋の人がうるさいことを言い出しそうなので)。
そう思ったのは、パリオリンピックの中継を見ていて、現地のフランス人リポーターがこの競技を“ル・ジュウドウ”と呼んでいることに気づいたからである。
lost in translationという言葉がある。
インターネットで”lost in translation”を検索すると『ロスト・イン・トランスレーション』という映画がヒットする。この映画は、映画監督フランシス・コッポラの娘で自身も映画監督のソフィア・コッポラがアカデミー賞受賞作(脚本賞)を取った同名の作品(2003年公開)があるが、それではない。
”lost in translation”は「異なる言葉の間では文化をまるごと正しく移し替えるのは無理で、かならずなにかが変わったり失われてしまう」という意味合いの言葉である(この括弧内の説明も lost in translation である)。
つまり、”JUDO”にせよ、ル・ジュウドウにせよ、日本人が「柔道」という言葉から受け取っているものとは違っているのである。
少々経験者向けの話になるが、たとえば、パリオリンピック男子柔道日本代表監督・鈴木桂治監督は7月31日に行われた男子90キロ級の決勝戦を振り返って、ジョージアのラシャ・ベカウリ選手に負けた村尾三四郎選手について「詰めが甘かった」と報道陣のインタビューで語った。
鈴木発言の真意を読み取るのは難しい。
ペーパー初段として解説を試みると、「柔道」では技を掛けにいくことで技ありが認められるが、オリンピックなどで行われる”JUDO”では返し技に技ありを認める傾向が強いと言われている。上のベカウリ対村尾戦では、残り1分で村尾選手が内股を仕掛けた。しかし審判はこれに技ありを取らなかった。これに対してベカウリ選手が残り4秒で技ありを決めた。このあたりのニュアンスは説明が難しいが、そういうものだと思ってもらいたい。鈴木監督が言外に含んだのは、残り1分で村尾選手が技を掛けた時に、技ありではなくもっと踏み込んで一本勝ちをとるべきだったということではないだろうか。
この決勝戦については、日本では誤審、ひいては八百長だと根拠不明の批判をする人まで出たが、鈴木監督は冷静だった。それは、鈴木監督が冷静にこの「競技」を”JUDO”として捉えているからだと思う。鈴木監督のコメントは lost in translation を踏まえたものであると思う。
阿部詩選手を含むすべてのオリンピックJUDO出場者は、当然この競技が「柔道」ではなく”JUDO”であることを理解し合意して出場している。
したがって、阿部詩選手にとって試合後のあの場はあくまでも”JUDOの試合後”であって、「柔道」家としての時間ではなかったと思う。
私が阿部詩選手を擁護するのはこうした理由からである。