FILCO Majestouch Convertible2 がデバイス検索モードで認識されない場合の対処法(解決)

FILCO マジェスタッチ・コンバーチブル2が、ウィンドウズ10のデバイス検索モードで表示されない問題が解決したので、以下にメモする。

サブで使っているノートPCを入れ替えた。といっても、これから使おうとするのは納戸から引っ張り出してきたWindows10の古いThainkPadである。

私は、経年変化により心身機能が年々劣化している。最近これが加速的に進行しているように感じる。たとえば、ノートPCの小さな画面で作業するのは年を追うごとに厳しくなっている。そこで、特に長時間の作業では、外部ディスプレイと外付けキーボードが必須である。
で、古いThinkPadをデスクの横に設置し電源を入れた。外部ディスプレイはつながったので、次にキーボード(FILCO Majestouch Convertible2)をBluetooth接続しようしたらつながらない。ていうか、そもそも外付けキーボードがPCのデバイス検索モードで認識されない。その状態は、外付けキーボードのリセットボタンを押しても変わらない。

そこで、インターネットで同じような症状が出ている人はいないか検索した。
すると、次のサイトがヒットした。『のりおの雑記帳』さんである。友よ!
Filco Majestouch Convertible2とWindowsの接続不良

このサイトの方法で解決したので、エッセンスだけ抜粋する。
1 外付けキーボードの電源を入れる
2 割付したいキーを押しながら(これがポイント!)、裏側のリセットボタンを押す。

以上である。
この後デバイス検索をかけると”Convertible2 TKL”が表示され、あっさりとつながった。

このトラブルを「キーボード側でデバイスクリアができていないからではないか」と推定し、マニュアルにも載っていないリセット方法に行きついた『のりおの雑記帳』さんはすごいと思う。

ということで、もし同じトラブルでこのサイトに行きついた人がおられたら、ぜひ『のりおの雑記帳』さんも訪問してほしい。新旧どちらのサイトにも面白い記事がたくさんあります。

うわっ…スタバのコーヒー、少なすぎ…?

タイトルからお分かりのように、今日はネタです、ネタ。

わたしはスターバックスのドリップコーヒーが大好きです。
スタバは看板商品のラテやフラペチーノが注目されがちですが、コーヒーも相当なものです。
あの濃厚でたっぷりとした量のコーヒーを全国どこでも飲めるっていうのは、わが国のコーヒーシーンを変えたと思います。

さて、そのコーヒーがいつの頃からか少なくなってしまいました。
店頭でトールやグランデサイズのコーヒーを注文すると、その場でかわいい店員さんやかっこいい店員さんが笑顔でカップに注いでくれるのですが、ですが。
カップの淵からだいぶ下のところまでしか、注いでくれなくなったんですよ。
わたしが知る限り、全国どこでも。


たとえば、今日立ち寄った某店はこんな感じ。
小心者なので、レジではなくテーブルまで持ってきてから写真を撮りました。
だから、これを撮るまでに私が飲んでしまった疑惑を晴らす証拠はなにもありません。
まあ、信じてくださいとしか言えません。
それはさておき、前はもう少し上まで入れてくれたよなあ、とレジ前で遠い目になったわたしです。

おそらく、カップになみなみとコーヒーを注ぐとコンディメントバーでミルクなどを入れるお客さんが困るから、というような理由がついているんだとは思います。
そして、それがマニュアルのようなものにしっかりと書かれているか、研修によって徹底されているのだと思います。
だから、全国どこでもこんな感じでカップの上を空かして入れるようになったんだと思います。
だけど、なんだろう、わたしの心にたち込めるこの不全感は。
端的にいって、わたしはカップのフチぎりぎりまでなみなみと注いでほしいわけです。

そう注文すればいいだけでしょ、と思うでしょ。
だけど言えない。なんか言いにくくて言えないんだな、これが。

そんなわけで、店員さんがコーヒーを入れてくれているとき、その後ろ姿に「念力」を送っているのはわたしです。
だけど、効果はありません(あったら、あったで怖いですけど)。

「おまたせしました。今日のコーヒーは〇〇です」
とか言いながら、店員さんはマグカップの持ち手を右側(店員さんから見ると左)に回して、笑顔で渡してくれます。でも、私の耳にはほとんど聞こえていません。
その時、私の意識はコーヒーの量に全集中です。視線はコーヒーの液面を凝視しています。
そしてほとんどの場合、(少なっ!)と心の中でなにかが弾けるようにつぶやきます。
しかし、わたしは店員さんの言葉に笑顔を返します。
「ありがとう」

どうです、この堂々とした小者っぷり。人間万事全方位外交です。
生まれついての小者には、小者なりの生き方とプライドがあります。

実は一度、もう少し注いでほしいとお願いしたことがあります。
その時は、気持ちよく注ぎ足してくれました。
気分がよかったので大げさに喜んでみせました。
それを憶えてもらって、次もたくさん注いでくれるようにしようという姑息な計算がそこにありました。
しかし、それは一度きりでした。

スターバックスの中の人に提案です。
この部分、マニュアルを変えませんか。
いまのように、ミルクを追加する人に黙って配慮するんじゃなくて、
「ミルク、入れますか?」と聞くようにする。
で、要りませんと言われたら、なみなみと注ぐ。
これで万事(いや、わたしだけか)、解決です。

ここまで書いて気づきました。
たくさん飲みたい時は、マグカップをあきらめてグランデサイズにするといいんですね。
値段は、トールサイズ420円、グランデサイズ464円。
その差、45円。

あーあ、なんだかなあ。

靴下の洗い方 洗濯する時は裏返しで!

暖かいが続くと、普段は気にならない靴下のにおいが気になります。
においが気にならなくても、靴下はだいたい毎日洗濯します。
この靴下を洗う時、表向きのままがいいのか、それとも裏返した方がいいでしょうか。

答えは、裏返して洗う、です。
サラリーマンのおっさん(すべての女性とナイスミドルを除く)が履いた靴下の汚れのほとんどは、おっさんの皮脂などおっさん自身の脂ぎった身体から出たものです。
これがしつこく(偏見)こびりついているのは靴下の直接肌に触れている側、つまり裏側です。
なので、靴下は裏返して洗うのが正解です。

では、洗い終わった靴下を干す時は、どうするのが正しいでしょうか。

これも答えは、裏返しのまま干す、のが正解です。
理由は、紫外線による色あせを軽減することができるからです。
もっとも、屋内に乾燥スペースがある今風の家に住んでいるかっこいい人や、ドラム式洗濯機で乾燥まで一気にできるシャレオツな暮らしのあなたには関係のない話しです。

それでは、いつ靴下を表に返すのか。
「いまでしょ」

・・・すみません。言いたかっただけです。

靴下を表に戻すのは、洗濯ものを畳んでしまう時か、履く直前でOKです。
「鶴の恩返し」のように、タンスの中の景色にもこだわるあなたなら、しまう時です。
おっさんも、洗ったとはいえ自分自身がイマイチ信用できないので、早く表に戻してきれいな方を外に出したいです。
そういったことが気にならない人は、履く直前でなんの問題もありません(得もありません)。

ではまた。

『夜、寝る前に顔を洗え』

毎日顔を洗う。これは文明に生きる人とそうでない人の「違いを生み出す違い」である。
文明に生きる人は、顔を洗う。まずはじめにこのことを強調したい。

その上で、ここではよる寝る前に顔を洗うことを勧めたい。

朝、起きたら顔を洗う。
朝の洗顔は、ほとんどの人が習慣になっている。大変けっこうなことである。
朝、顔を洗うと感覚がさっぱりする。心身が活動モードに切り替わる。
試しに、わざと顔を洗わずにおくとどうか。
なにか、いまひとつ前に進めないようなもどかしさが残るのではないか。
ことほど左様に、朝、顔を洗うのは心身ともにけっこうなことである。

さて、夜に顔を洗ってから寝るのはどうだろう。
一日中、一所懸命に働くと顔が汗や脂やほこりでべたべたになる。
こうしたものをきれいにして横になると爽快である。
きれいにするのは簡単である。洗面台に立って顔を洗えばいい。
洗い方はお好みでいい。専用の洗顔フォームを使ってもいい。そこにある石鹸を使ってもいい。
なんなら蛇口から水を出して、じゃぶじゃぶと両手で洗ってもいい。
私のおすすめは、お湯で洗うことだ。石鹸はよほど脂汚れがひどくなければ使わなくてもいい。
丁寧にあらって、タオルでポンポンと拭く。
これだけで、横になってからの寝心地、眠りの質が大きく変わる。
ぐっすり眠れると健康でいられる。人生の質が変わる。
突き詰めていうと、夜、顔を洗うのは魂のためにいい。

しかし、夜の洗顔は朝に比べて習慣になっている人が少ないのではないか。
私は、ぜひ夜の洗顔を勧めたいのである。

SLIM 月面着陸成功!

国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)は「2024年1月20日午前0:20(日本標準時)に小型月着陸実証機(SLIM)が月面へ着陸したことを確認」したと発表しました。
月面への着陸は、世界で5か国目です。

今回のミッションのひとつは、「着陸させたいところに降ろす」ことでした。これまでは「降りやすいところに降りる」ものだったそうです。
これを実現するために、今回の機体には着陸場所の地形に合わせて変形する3D プリンターで製作された5本のアルミニウム格子着陸脚など、新しい技術が開発されました。
しかも、今回の総開発費は約180億円(予算は145億円)と発表されています。このレベルのプロジェクトではかなり安いと思います。
この成功によって、月面着陸技術は新しいフェーズに移ったと言えるかもしれません。

SLIM’s mission architecture hopes to shift the standards of lunar landing missions, from touching down where it’s easy to setting down exactly where desired. The main objective of the mission was to demonstrate these landing capabilities.
https://www.planetary.org/space-missions/slim-japans-precision-lunar-lander

永田町TBRビルを想う

「権力は場所に宿る」
秀和永田町TBRビル(通称TBRビル)は、この言葉がそのまま当てはまる建物です。

TBRビルは、地上11階、地下2階。1965年に旧首相官邸の斜め向かいに完成したオフィスビルです。
このビルの名前とともに思い出すのは「竹下登」「小渕恵三」「梶山静六」「綿貫民輔」といった自民党経世会の大物政治家です。
彼らは、このビルに事務所を構えていました。
そのため、TBRビルには、議員、官僚、陳情に訪れる人の波が絶えなかったといいます。

時として、TBRビルは政局の舞台にもなりました。
もっとも印象的なのは、梶山静六氏と小渕恵三氏が対立した1998年の自民党総裁選です。
自民党が大敗した同年7月の参議院選挙の結果を受けて橋本龍太郎首相が辞任を表明したのを受けて、経世会の流れを汲む平成研(=小渕派)から梶山静六氏と小渕恵三氏が自民総総裁選挙に立候補を表明しました。
両氏は、小渕氏が村山富市首相から橋本龍太郎首相に続く「自社さ」の流れを尊重したのに対して、梶山氏は当時自由党の党首であった小沢一郎氏との連携による「保保連合」を志向するといった違いがありました。
両氏とも出馬を主張して譲らないところに野中広務幹事長が調整に入ったものの、結局交渉は決裂。平成研から2人が総裁選挙に立候補するという異例の事態になりました。
この時、自民党は小渕梶山の2者対決ではなく、他派閥から第三の候補者を立てガチンコの構図になるのを避ける手段に出ました。この判断はいかにも当時の自民党らしいと言われています。
この時担がれたのが、のちに首相になる清和研の小泉純一郎氏でした。
結果は、小渕氏225票、梶山氏102票、小泉氏84票。
さすが最大派閥のオーナーらしく、ダブルスコアで小渕氏が総理総裁の座に就くことになりました。

ところが、小渕氏は2000年4月2日に脳梗塞で倒れます。
これによって小渕内閣も4月5日に総辞職し(本人がこん睡状態にあるとされたため、決定したのは青木幹雄首相臨時代理でした)、いろいろと批判はあったものの、新たに首相に選ばれたのが清和会の森喜朗氏でした。

今にして思えば、この時を境にTBRビルは政治の表舞台からゆっくりと消えていくことになりました。
当時、TBRビルは、金丸信自民党副総裁の事務所があった「パレロワイヤル」、小沢一郎民主党代表が入居していた「十全ビル」とあわせて、「権力のトライアングル」と呼ばれ権勢をきわめていました。
それが、森喜朗氏に続いて2001年に同じ派閥の小泉純一郎氏が首相になり清和会が主流とみなされるようになるとその一角が崩れ構造は激変しました。
政財官の人の流れもTBRビルを離れて、清和会が事務所を置く「グランドプリンスホテル赤坂」に向かうようになりました。

そして2008年、TBRビルに解体の噂が立ちました。
平成研ゆかりの関係者はそれを懸命に否定しましたが、結局建物は2015年半ばに解体されました。
平成研は、ついに伝統的な拠点を失うことになりました。

現在、TBRビルの跡地には「アパホテルプライド赤坂国会議事堂前」が建っています。
アパホテルといえば、アパグループ代表の元谷外志雄氏は安倍元首相に近かったといわれています。安部氏は清和会でした。
こうしてみると、経世会から平成研に受け継がれた権力の牙城「TBRビル」は、ついに清和会の手中に落ちたようにも見えます。

「権力は場所に宿る」ことを、改めて感じる顛末です。
今日のホテルは、この「アパホテルプライド赤坂国会議事堂前」です。

※参考
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%80%E5%92%8C%E6%B0%B8%E7%94%B0%E7%94%BATBR%E3%83%93%E3%83%AB
月刊旧建築
https://trystero.exblog.jp/8893295/

新しいNISA、どうですか

新しいNISAでは、成長投資枠とつみたて投資枠の併用ができるようになり、年間投資上限額が合計額が360万円、非課税保有限度額の総額が1800万円に引き上げられました。
保有期間もこれまでのNISAと違って無期限になりました。
「貯蓄から投資へ」と言われたのは2003年、証券税制の優遇措置開始の時でした。
それが岸田政権で再び強調されています。
投資に関心を持つきっかけはひとそれぞれです。
「貯蓄から投資へ」の呼びかけもきっかけだと思います。
一般の人を対象にアンケートすると、特に多いのが「将来に対する漠然とした不安」といわれます。
さまざまなきっかけで、市井の人々は投資に向かいます。
そのきっかけのひとつであり受け皿となるのが新NISAというわけです。

新NISAは、投資をする人に有利な仕組みです。
制度の範囲内での取引なら、利益や配当金が非課税になるからです。
通常、株式や投資信託などから得られた売却益や分配金・配当金には20.315%の税金がかかります(※)。
でも、新NISAではこれがかかりません。非課税です。
新NISAは、投資をする人全員がその恩恵を受けられます。
たとえば、一般口座を使って株式を購入すると、配当が10万円あっても振り込まれるのは8万円を下回ります。私は、税金は払えるだけ払う考えですが、これがそのまま10万円振り込まれます。正直かなりうれしいです。
※内訳は、所得税・復興特別所得税15.315%、地方税5%

新NISAで購入した株式が値上がりして売却しても、その売却益は非課税です。
たとえば、買った株式360万円分が3,600万円になった、とします。
いわゆるテンバガーです。この場合、いったん利益確定するのが定法です。
売却益は3,260万円です。この税金がゼロ円になります。
同じ事を一般口座ですると税金は6,622,690円です。新NISAがいかに有利かわかります。
この有利さを実感してみたいので、誰か急騰銘柄を教えてください。

結論。口座開設しても損はありません。

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本ブログ内の記事やデータは、すべて私の独断や思い込みに基づいて書かれています。
決して、みなさまの投資や活動のご参考となることを目的にしたものではありません。
みなさまの投資や活動に関する最終決定は、みなさまご自身の判断において行われるようお願いいたします。

ニュースを読んで「あれれ」と感じるのはなぜ?

ニュース記事を読んでいて「あれれ」と思うことがあります。
なぜそう感じるのか考えてみました。

どうやら、それには共通した理由があるようです。
まず、その記事が事実かどうかわからない。
次に、背景が説明されていないか十分ではない。
そして、記事に「角度」がついている、の3つです。

まず、事実かどうかわからない記事をよく見かけます。
何年か前に「エビデンス?ねーよそんなもの」が話題になりましたよね。
エビデンスは、根拠、証拠、裏付けを意味する英語です。
私は、なにがなんでもエビデンスが無ければいけない、とは思っていません。
証拠や根拠はないんだけど、なんとなく気持ち悪いといった感情も大切だと思うからです。
でも、多くの人に読まれる(ことを想定している)記事は、書かれていることを事実として信じるに足りる「なにか」を示した方がいいと思います。
少なくとも、私はそれで納得することができます。

次に、背景の説明が十分でない記事についてです。
読者が神羅万象に通じている神様であれば、並べられた事実を見るだけで時を移さず理解することが可能でしょう。
しかし、ほとんどの読者は神様ではありません。
少なくとも、記事を読もうとしている時点である程度その内容に関心があると想像できます。
しかし、いやだからこそ、もう一歩理解を深める説明がほしいと思います。
読み手が深く考えることができる記事にしてほしいからです。
ただし、いくら説明しているからといって極端な思い込みや陰謀論を見せられると、私は急に萎えてしまいます。

ここまでの2つをまとめると、たとえば次のようになります。

●●という事件があった(事実)。
●●を規制するのは○○法で、そこには○○と規定されている。
しかし、犯人は●●した。これは○○に違反している。
警察によれば、犯人が犯行に及んだ背景は△△だという(説明)。
今後の展開としては、A、B、あるいはC、云々…(補足)。

さて、最後は記事の「角度」についてです。
「角度」というのは、その事実をどのように捉えているのか、という意味です。
「角度のついた記事」は政治関係でよく見かけますよね。
その「角度」を付けすぎると、いわゆる「振り切った記事」になります。
一部地方紙の「振り切った記事」がインターネットで話題になったこともありますよね。これについては例を挙げるまでもないでしょう。

ニュース記事から「角度」を除くのは難しいと思います。
なぜなら、記事自体が書き手の主観そのものだからです。

例を挙げます。

午前3時に犬を散歩させている人がいたとします。
この記事を書く人が「こんな夜遅くに犬を散歩させるのはあり得ない。最近、この街も不用心になったから、犬の散歩にかこつけて悪いことを企んでいるのかもしれない」と、これはいささか極端なたとえですがそう思い込んでいたとしたら、記事は次のようになるかもしれません。

「なんと、午前3時に犬を散歩させている人がいた」
自分で例示しておいてなんですが、ひでーな、これは。

あるいは、ここまであからさまでなくても、
「午前3時に犬を散歩させている男がいた」
とかには、なりそうです。

”なんと”で強調するのは記事として論外ですが、人を”男”に変えるだけで悪だくみのニュアンスが含まれるように感じるのは、私だけでしょうか。

なにが言いたいのかというと、書き手がどの角度から事実に光を当てるか、またどう切り取るかで、記事を読む私たちに与える印象がまったく違ってくるということです。

もちろん記事はこんな一行だけではなくて、数行、数十行にも渡ります。それをどういう構成で書くのか、両論併記の場合はどちらの意見を先に書くのか、それぞれの比率をどうするのかといったことも加わって、それら全体が「角度」を感じさせられるものになります。

どのような記事にも書き手がいます。
すべての記事は書き手の主観で書かれています。
だから、事実の捉え方も、説明の多寡も、角度も、すべて主観の呪縛を逃れることはできません。
それでも、可能な限り事実を、必要にして十分な説明とともに、角度をつけずに記事にしてほしいと思います。そのような記事が読みたいです。

え、お前のブログはどうなんだ?
これは、私が自分自身に向けて書いている備忘録だからいいんです。
事実でなく思い込みを、説明ではなく思い込みを、角度でなく思い込みを書いていいって、思っています。
てことで、こいつは笑って許してやってください。でわでわ。

お茶で「間」を持たせるお話し。

感染症の流行で止まっていた社会活動、とりわけ多くの人が集まるイベントや相手先を訪問して面談する機会が急に増えてきたように感じます。
いや、硬い書き出しですね。さっきまで仕事していたんです。すみません。

ところで。
お客さんとしてどこかの施設や事業所にお呼ばれすると、腰を下ろしてしばらく経った頃にお茶が出されます。
いつも出されるわけではありません。出してくれないこともあります。その時は「呼び出しといてこの扱いかよ、ちっ」とか思うわけです。顔には極力出さないようにしていますが、出てたらすみません。

兎も角。
このお茶、必要かと問われたら個人的にはまったく必要ありません。
それは、わたくし好きな飲みものは持参する主義だからです。
もしわたくしのために飲み物を用意してくれるなら、まず「水」、次に「炭酸水」、3、4が無くて、5番目にぎりぎり「コーヒー」でしょうか。基本、この3つしか飲みたくありません。
さらにいえば、「水」といってもなんでもいいわけではありません。硬度70mg/L以下の軟水に限ります。「炭酸水」はウイルキンソン一択です。
こういう狭量なヤツなので、いつも飲み物は自前です。

わたくしほど極端でなくても、飲み物の好みはけっこう分かれるものです。
短時間の打ち合わせなのにコーヒーが出された、あるいは、糖質制限中なのにオレンジジュースが出てきたなど、微妙な気持ちになることが少なくありません。
その点は、お茶が無難です。好みによって飲む飲まないがはっきり分かれるものでもなく、水のような”無料サービス感”も無く、コーヒーのように”お残し厳禁”な気合いも漂っていません。ってコーヒーは二郎系かよ。
私も上ではああ言いましたが、お茶は出されればいただきます。
この、飲みたければ飲み、飲みたくなければ口を付けなくても許されそうな柔軟さがお茶のよさでしょう。

ところで、どうしてお茶を出すのでしょう。
わたくしが考えるに、それは「間」を持たせることができるからじゃないかと思います。

面談や打ち合わせをしていると、こちらが質問したことに相手がなにも答えないといったことがしばしば起こります。
こういう場合、こちら側が取れる対応は大きく2つです。
ひとつは、話題を変える。もうひとつは相手が答えるのを待つ。
この2つを場合によって使い分けます。
面談で、今ここで話しを詰めてしまいたい場合など、話題を逸らしたくないときがあります。
こういうときは、黙って相手が口を開くのを待つしかないわけですが、その無言の時間がなかなかにつらいです。おそらく、たとえ1分間といえどもじっと待つのは耐え難いしょう。時間が進まなくてじれったい気持ちになったりします。そんなときには、往々にしてこちらから余計なことを言って別の話に逸れさせてしまったりすることも起こりえます。

この時、お茶があると「間」を持たせることができます。
面談で相手が沈黙したら、10秒ほどそのまま待ちます。顔色を見ていて、答えないな、と感じたら、あなたはやおらテーブルの湯飲みに手を伸ばします。そして、受け皿から湯飲みを持ち上げてゆっくりと口に運びます。ひと口、お茶を口の中で転がすようにして味わい、それが舌の上を滑って喉の奥に消えたら、もうひと口。もういちど相手の顔に視線をやると、まだ黙っています。
そこでゆっくりと顔を横に向けて窓の外を見ると、色づいた街路樹が風に揺れています。ああ、季節も深まってきたなあ。さて、返事はまだかな。
これで1分ぐらいは余裕でかせげます。

そのうち、相手が考えていることをぼそっと口にしたりします。
これが案外本音だったりするので、侮れません。

相手も「間」が持たないときは、同じようにお茶を飲んだりしますから、行って来いで都合2分間です。この2分間は、表面的には意味があるのか無いのかわかりません。だけど、話しを深めるのに必要な「間」です。これをこうして作ることができます。
これがお茶の効用じゃないでしょうか。

そんなこんなで、お茶はあったらあったでいいものだな、と思うわけです。

最初に書いたことと真逆の結末ですみません。

テキストのコピーはできません。